大相撲の「土俵は聖域」であるという意味

最近発刊された脚本家、内館牧子の著書「大相撲の不思議」(潮出版社)のまえがきには、四歳の時から大相撲が好きだったことから始まって著者がこの本で読者に伝えたいことが凝縮して書かれている。
 
私がそれを読んで興味をもったのは、新田一郎の言葉「いにしえの相撲節に発する流れを汲んだ『伝統』の上にこそ存立し続けている相撲は、近代的な『歴史』とは違う時間を生きているのである」を引用しつつ、
「『男女平等』『男女共同参画』を叫ぶ声があがるのは当然であり、また健全なことである。理不尽な不平等は断固として改革していかなくてはならない。問題は伝統文化の世界である。また、民族芸能や風俗、風習、行事などについてもだ。誰も思い浮かべるのは大相撲と歌舞伎、宝塚歌劇だろうが、各地には男だけ、女だけが担う祭りもあれば、シャーマンとして女だけが執り行う習俗、男しか担えない風習も残っている。それらの多くは発祥の時点から、男だけ女だけの謂れがあり、今に伝わっているはずだ。その謂れは現代にあっては取るに足らないものであったり、時代に合わないとされたりもした。こういう状況と時代を考え、これまで守ってきた当事者たちが、それこそ、『男女共同参画』に改めたものもある。・・中略・・私自身は、前述した伝統文化や民族行事、習俗等に関しては男女共同参画にする必要はまったくないと考えている。とかく『男女差別だ』と言われるが、それは『差別』ではなく、一方の性だけが担い伝えてきた『文化』だと考える。それを現代の考え方に合わせて変える必要はない。それをすると、別物になる。反対の声を真摯に検討することは、伝統を生かす上でも重要なことだ。そして最終的に決断するのは、守り抜いてきた当事者である。」等々と述べていることである。
 
上記見解は、大学院に入って宗教学を学び、修士論文で「土俵という聖域-大相撲における宗教学的考察」をテーマにして歴史的な観点から相撲のことを研究した者として流石だと思う。私も大相撲が好きであるということでは著者と同じであるから共感するところが多い。相撲がいにしえの時代からの伝統文化であるとは詳しくは知らなかったし、土俵築や土俵祭のことは初めて知った。また、まわしポロリ事件や懸賞金を受け取るときの手形の切り方なども面白く楽しく読ませてもらった。この本を読めば相撲の知識・歴史的背景のわからない人も大相撲のことについてある程度は納得するのではないだろうか。
 
また著者は、大相撲は「神事」「スポーツ」「伝統文化」「興行」「国技」「公益財団法人」の六つの要素から成り立っているとし、特に大事なのは「土俵は聖域である」とし、聖域について「聖域とは、乱暴に言ってしまうと『一定の区域を囲い、その内側』のことだ。外側は俗域とされる。囲うことは『結界を張る』といい、もともとは中国において仏教徒の修行に場を囲んだことに始まる。修行僧の心を乱す障害物が入らないように、その区域を囲ったのだ。土俵は20俵の俵で結界された聖域と考えられる。ということは、土俵の外は俗域である。この二つの区域は異世界になる。」と述べている。
 
これは大相撲の土俵というものは聖域であり、それは「神」の世界にあるものなのだからそこで闘う力士や特定の男性以外は入れない、つまり女性が土俵上には上がれない区域であることを意味するようである。まさに神道の考え方ではあるがそれも伝統文化であればこそという感がする。
 
そして最後に「『国技』であり続けるためには、保守すべきは断固として保守すべきである。近代的な『歴史』や『思潮』に従う必要はない。」と断言している。
 
これが著者の伝えたい結論であろう。総じては私もその通りと思う。改めるものは改めるが、残すものは残す、つまり大相撲は日本の伝統的な文化を守る「神の」世界なのであるから保守的でよい。したがって、基本的にはこれまで通り土俵は女性が上がることのできない男性のみの聖域であるべきと思う。ただ、巷で話題となっている土俵上に急病人が発生したとき看護師や医師である女性が土俵に上がるのを認めるべきかどうかという問題は、当事者である日本相撲協会に決めてもらうしかない。個人的には、上記のような救命活動は、前にも述べたが人の生死に係るので認めるべきであると思う。